明星学苑に深く長く貢献。伝統を次の時代に繋いでいく

#082

明星同窓会 会長

大室容一さん

おおむろ よういち

【明星幼稚園・明星小学校・明星中学校・明星高校1961年卒】

幼稚園と小学校の創設期から明星で学び、卒業後も母校に多大な貢献を果たしてきた大室容一さん。現在は明星同窓会会長や学苑理事の職も務められています。幼少期のエピソードと共に、長きにわたり明星と関わってきた見地から、思うところを語っていただきました。

創設当時の明星幼稚園と小学校の思い出

私は1949年9月に開園した明星幼稚園の第一期生です。戦後の食糧難などを理由に明星中学校の寄宿舎が廃止され、そこに戦地から引き揚げてきた先生たちが住むようになったのですが、その子供たちの居場所がなかったため、幼稚園を作ることになったのです。

当時、幼稚園に通う子供はほとんどいなかったのですが、近所の子たちも通うようになり、話を聞きつけた明星中学卒業生の父が私を入園させました。入園時の児童数は19人。私は最後に入園したため、19番という入園番号を今でも覚えています。園には明星学苑創設者である児玉九十先生のお孫さんも通っていました。入園してから卒園まで6カ月しかなかったのですが、その間、毎日のように子供たちが増えていき、最終的には30人ぐらいにまでなっていました。短い期間でしたが、中学生の運動会に参加したり、クリスマス会や学芸会など、いろいろな思い出があります。

われわれ園児が卒園した後の受け皿として、小学校も作ることになりました。でも急な話なので、入学して半年間は幼稚園の時に使っていた部屋をそのまま授業に使っていました。9月に校舎が出来てからはそちらに通うようになりましたが、本当に行き当たりばったりでしたね(笑)。出来たばかりの小学校なので、最初は1年生と2年生の教室2つと職員室だけしかありませんでした。4月になると新入生が入ってくるので、卒業するまで何度も校舎の増築を繰り返していました。

中学野球部(前列中央が大室さん)

小学校時代は、入学から卒業までずっと上級生だったので、何でもやらされました。小学3、4年生の頃から運動会の得点板や入場ゲートの制作を手伝っていましたし、自分たちで土に穴を掘り、材木を立ててサッカーゴールを作ったりもしました。明星高校の講堂が新しくなった時には小学生が記念の出し物としてお遊戯を披露する予定だったのですが、稽古中に海軍上がりの怖い担任が力強くドスンと足を踏み込み、その拍子に床が抜けてしまったこともあります。それぐらい粗末な床材しか使えなかったような時代でしたが、先生たちも張り切っていたのでしょう。勉強よりそんな記憶のほうが残っているものです。

三多摩地域からの支援が強い基盤に

私は明星の卒業生であり、学校の近くで自営業を営んでいる関係もあって、卒業以来、社会人になってからもずっと明星との縁が切れたことがありません。同窓会にも継続して関り続けています。2012年から今日まで、明星同窓会の会長を務めています。

かつての明星学苑は「三多摩の学習院」と呼ばれ、経済的に裕福な家庭の子供たちが多かったのですが、時代の変遷につれて、さまざまな背景を持つ子供たちが入学してくるようになりました。そこで、同窓会としても経済面のサポートをより手厚くして、子供たちが安心して勉強に取り組めるよう、しっかり予算を付けて手助けできる仕組みづくりに力を入れてきました。以前から奨学金のような制度はありましたが、一定の条件を満たす生徒たちを広く支援できるようにしたのです。

例えば、同窓生からの寄付を増やしたり、以前は定期的に更新していた同窓会名簿の印刷をやめたりして、子供たちのために使えるお金を増やす工夫をしてきました。総会の開催に際しても無駄が多かったので、評議員の人数を増やし、同窓生への案内状を何万通も送る費用を削減するなどしています。

同窓会ネットワークの第2回 星和会にて(右側が大室さん)

明星学苑理事の一人として、やはり明星の存在価値の基盤は、三多摩地区にあると考えています。少子化社会の中で、今後も明星が生き残っていくには、地元の人々に愛され続けることが必要です。大きな支えになっていただけるのは、三多摩に住む卒業生の方々です。それらの方々が、自分のご子息を明星に預けたい、学ばせたいという気持ちになるような学校にしなければいけません。それが伝統となり、次の100年に向けてさらに強い基盤となっていくのだと思います。