明星の本流にある精神と人々との繋がりが仕事に活きる

#056

株式会社 西多摩新聞社 代表取締役

柴﨑斉さん

しばさき ひとし

【明星中学校・明星高校・明星大学 人文学部 心理・教育学科 心理学専修 1984年卒、明星大学大学院1986年修了】

現在、西多摩新聞社を経営する柴﨑 斉さんは、中学時代から大学院を修了するまでの12年間、明星学苑で学びました。若い頃に学んだ明星の精神が、社会に出て仕事をする上で大いに役立っていると語ります。誠実に努力すること、人々との繋がりを大切にすることによって、周囲からの応援が得られるようになると語ります。

大学院の恩師に憧れて実業の世界へ

私は中学校から大学院まで、ずっと明星学苑にお世話になってきました。26歳になる、次男も明星高校に通っていました。西多摩地域には明星の卒業生が多く、OBやOG同士のネットワークが、仕事の上でも非常に役立っています。

私が通っていた当時、明星中学はまだ男子校で、器械体操部に入って高校を卒業するまで部活動に熱中していました。運動が好きだったので体育教師になりたいと思っていたのですが、視覚障害を持っていたため難しいと分かりました。ただ、教育の分野には関心があったため、教員免許を取得して心理学を学べばカウンセラーなどへの道が開けるのではないかと考えて、明星大学の心理学部に進学することにしました。

大学院まで進んだのは、行動心理学者の出口光先生との出会いがきっかけです。先生が慶應義塾大学で教鞭をとられていた際、明星の心理学科に講師として教えに来ていたのですが、その内容が非常に興味深いものでした。その後、先生が明星大学に赴任することになったため、先生の下でさらに学びを深めたいと考えました。

ところが、修士課程が終わる直前に、先生は奥様の実家の家業である紳士服チェーンの経営者に転身することになりました。その時先生は「大衆を相手にするビジネスの世界で、学んできたことを実社会で活かしていきたい」と話されたのです。研究者としての先生のスケールの大きさに驚くと共に、私自身も「実業の世界で人の役に立ちたい」という気持ちが湧いてきました。そこで、将来は母方の祖父が経営していた西多摩新聞社に入ろうと決心しました。

新聞やジャーナリズムの世界への関心はそこまでなかったのですが、大学生時代にアルバム編集委員会という卒業アルバムの制作を手掛けるチームに入って活動したことが、今の仕事に繋がっています。委員会の先輩からは「一枚の良い写真を撮りたければ、対象と良い人間関係を作り、その中に動いている“気”を理解する必要がある」と教えられました。そうした伝統があったため、たとえばワンダーフォーゲル部の山登りに同行して寝食を共にしながら撮影したり、人形劇サークルに潜入して密着ルポのようなことをしたりしていました。そうした活動を3年間続けたことも、将来の道を決める上で影響したのかもしれません。

誠実な姿勢と努力によって周囲から支持される

大学院を修了した後は、まずビジネスの現場を学びたかったので、出口先生が経営する紳士服チェーンで9年間働きました。34歳の時に退職して西多摩新聞に入社、広告営業総務部などを担当した後、代表を就任することになりました。
西多摩新聞は毎週金曜日、年間50回発行で、西多摩地域と昭島市の話題を中心に伝えています。経営者としては、すでにある会社の土台に胡坐をかくことなく、新しい試みに挑戦しながら、人材の確保も行っていかなくてはなりません。情報伝達手段が、新聞とテレビとラジオしかない時代は終わり、様々なメディアが存在する中でどんな経営ができるか、常に考えていく必要があります。

「不易流行」という言葉がありますが、明星学苑で刷り込まれたのは「健康、真面目、努力」に代表される不易の部分です。誠実であり、努力を怠らず、身体面だけでなく精神面での健康を意識することが、生活する上での基礎となっています。流行の部分は地域とのつながりを大事にしながら、時代の要請に合った取り組みを行っていくこと。それが今の世の中を知ることにも繋がります。本流に流れる明星の精神を縦糸とするなら、地域の人々との関りは横糸です。現在の仕事は、まさにそうした部分を体現するものだと認識しています。誠実な姿勢で、地道に取材活動を続けていくことで、周囲の人々から支持され、応援されるようになっていきます。気が付けば、明星の先輩たちから支えられていることも数多くありました。

学生時代を振り返って思うのは、先生方をはじめとする周囲の人たちが私の居場所を作ってくれたということです。在校生の皆さんも、学校生活を通じて、ぜひ自分の居場所を見つけてください。自分の居場所が出来たら、友人の居場所も作ってあげてください。そうやって周囲との繋がりを大事にしていけば、さらに毎日が充実したものになるでしょう。