

面積が小さく、資源に乏しい日本が経済的に成長するためには、海外との強い結び付きが欠かせません。この構図は昔も今も変わることのない事実です。とくに高度成長期における日本の企業および人々は、資源を求めて広く海外へと渡りました。しかし長期に及ぶ海外勤務において、大きな問題となるのが家族、とりわけ「子どもの教育」です。21世紀の現代であれば、国際的な教育観を身につけることを目的に、現地での教育を選択するケースも多いかもしれません。しかし当時は、海外においても日本人による日本語での教育が強く求められた時代でした。そんな背景のもと、1967(昭和42)年4月1日、クウェートとサウジアラビア両国の中立地帯であるカフジ地区に「カフジ明星小学校・幼稚園」が創立されました。
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| カフジ明星小学校の朝礼・体操の様子 |
当時カフジ地区にはアラビア石油の鉱業所があり、日本人従業員140名が働いていました。そのお子さんたちの教育のために「小学校を設立できないか」とのアラビア石油からの要望に対し、明星学苑が協力したのです。その決断の根本には、児玉九十先生の“国家の発展のために教育の面から少しでも協力しよう”との思いもありました。異国の地とはいえ、あくまでも「明星小学校」ですから、朝礼、体操に始まる1日の授業内容や、個々を生かした指導法など、東京の明星小学校と全く同じ教育が、遠くカフジでも展開されていたのです。
その後、日本鉱業株式会社が、銅資源の確保を目的にアフリカ・コンゴ民主共和国にコンゴ鉱工業開発株式会社を起こした際にも、カフジ明星小学校と同様の協力を依頼され、1970(昭和45)年6月から「ムソシ明星小学校」の開校準備がスタート(開校式は翌年9月)。さらに1975(昭和50)年には、ブリヂストンタイヤ株式会社がイランに工場を設立するにあたり、現地での従業員の児童・幼児のための学校を設立したいとの要望に応える形で、「シラズ明星小学校・幼稚園」が9月に開校されました。現代でこそ学校と企業が協力し合って事業を行う「産学連携」の事例は多くありますが、30年以上も前に、しかも海外で「教育」を行うことは極めて稀な例であり、明星学苑の教育が世に広く認められていたことを指し示すエピソードといえます。
なお、現地の国内事情や治安悪化などもあり、ムソシ明星小学校は1976(昭和51)年、シラズ明星小学校・幼稚園は1979(昭和54)年に役目を終えて閉校。また湾岸戦争の影響で1990(平成2)年から約2年間の休校を挟みながらも、創立35年以上の歴史を築いてきたカフジ明星小学校・幼稚園も、2005(平成17)年より休校・休園されています。それでも海外における、この3つの小学校は間違いなく“明星教育の誇り”と呼べるもので、これからも偉大な歴史として語り継がれるはずです。現に各校に赴き、実際に教鞭を執られた教員の方々が、今も府中校などで活躍されている事実は心強い限り。「世界に貢献する人の育成」をめざす明星学苑にとって、海外で真摯に教育を展開した事実は、今後の教育方針にもしっかりと生かされていくことでしょう。 |